ワルシャワ蜂起博物館に行きますので、ワルシャワ蜂起っていったい何なのかを軽ーく調べました。まず驚きだったのが、ワルシャワ蜂起(1944年8月)と、ワルシャワ・ゲットー蜂起(1943年4月)はそれぞれ別のものであるということ。
今回訪問するワルシャワ蜂起博物館は、前者のワルシャワ蜂起についてを扱ったものになります。
Agenda
時代背景 - 赤軍とドイツ軍の戦闘
ワルシャワ蜂起は1944年8月なので、第二次世界大戦の最中となります。舞台はワルシャワですが、当時はソ連の赤軍がドイツ軍と戦闘を繰り広げており、ワルシャワはドイツ軍が占領していました。
赤軍は徐々に進軍し、7月30日にはワルシャワからあと10キロ、というところまで進出します。そこで、赤軍はポーランドのレジスタンスと示し合わせ、レジスタンスは8月1日にワルシャワで武装蜂起をするように打ち合わせ、これを実行します。これが、ワルシャワ蜂起です。
赤軍の支援のないなかでの武装蜂起
ワルシャワでの武装蜂起を8月1日にしたのは、そのころに赤軍がワルシャワに到達することを前提にしたものだったのですが、7月31日時点で赤軍はドイツ軍の猛反撃にあい、進軍を停止してしまいます。そしてこの情報はワルシャワで武装蜂起に向け準備するレジスタンスに伝わらず、ワルシャワでは赤軍の支援のないなかで武装蜂起が開始されます。
このとき、レジスタンスのほとんどは火器を持たない状態で武装蜂起を開始したようですが、不意を突いたことでドイツ軍の補給所を占領する、といった一定の戦果が得られました。
この武装蜂起は、アドルフヒトラーに即日報告され、アドルフヒトラーは蜂起したレジスタンスの弾圧、ワルシャワの徹底的な破壊を命じます。
レジスタンスは士気も高く、統制もとれていたのですが、赤軍からの支援は依然として行われず、徐々に蜂起は失敗に向かっていきます。
レジスタンスの壊滅
武装蜂起から約2か月後の9月末、レジスタンスは壊滅し、さらにドイツ軍は懲罰の意味を込めてワルシャワの街を徹底的に破壊します。戦死、処刑された人数を含めるとワルシャワでは22万人が亡くなりました。
詳しいことは調べきれませんでしたが、ワルシャワでの武装蜂起の最中、赤軍に対しては各国が様々に支援を申し出ていたようなのですが、ソ連はこれを拒否し、支援活動に対する妨害を行うなど、あえてレジスタンスが壊滅するように動いていたという見方もあるようです。
現在も、ワルシャワでは8月1日の武装蜂起の時間になると、アナウンスが流れ、1分間の黙とうをささげるそうです。
その後の復興作業
22万人が亡くなった、というのは恐ろしいですね。
ちなみに、徹底的に破壊されたワルシャワですが、今ではもとの美しいワルシャワに戻されています。復興作業は戦争の終結後から始まり、戦争の悲惨さを忘れないために廃墟のままで保とうという案もあったようなのですが、元の美しいワルシャワを取り戻すという市民の情熱により、ワルシャワは戦前の姿に戻されます。
この市民たちの活動により、ワルシャワ歴史地区(復興された地区)は1980年に世界遺産として登録されます。
あとは、実際にワルシャワ蜂起博物館で見てこようと思います。
(もっとたくさん時間を取ったほうがいいような気がしてきた・・・)